破壊芸術の真相
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破壊軍団の深層心理


なぜこんなことをするのか?と聞かれたのでこんなコーナーを作りました。私のいろいろな考えを述べるつもりです。ロボになにか夢を感じる方は読まないことをすすめます。掲示板の書き込みに対してのコメントも載せます。また、文章に対しての感想や反論は掲示板かメールでお願いします。(新しい文章を上部に足していきます)

芸術とは、求愛である。
芸術の定義において、諸説あるが私が考えついた答えは、芸術とは、求愛である。いろんな表現や思想、具現化など全て求愛である。では、求愛とはセックスアピール、わしどうや?ということである。どんなにネガティブな表現であれ、ストイックな作品であれ、意味不明な思考であれ、わしどや?である。

いんぼう
2012年、いろいろな情報があって悪魔主義がブルービームでスペクタクルを見せるらしい。世界って、終わったりはじまったりするもんじゃないんだけど。それでも、どうにかしたいのかな?どんなスペクタクルだろうか?少々の映画じみたネタだとしらけるね。実害がある分、ただの嫌がらせにしかならないな。自作自演で、戦争して金儲けして、そんなに楽しいかね?悪魔主義であって悪魔じゃないから、普通に寿命がきて死んでしまう。

「何年かたって」
下の書き込みが、多分、五年前くらいなのだろう。時間が経過して、再読すると恥ずかしい感じもあるし、記録として残る事(残す事)がよかったと思う。今年は、2011年です。個人的には、いろいろありました。そこそこ自由に使う事の出来る場所もあるし、結婚して、子供も産まれました。父親が亡くなってと。人生での経験が、考える基盤をたくさん作りました。デスロボでは、思索できない事でした。ロボは、実生活上に入ってこないのです。私の関係の仕方が希薄な為かもしれませんが、実体験に基づく感情を私は信用します。デスロボは、仮想次元の具現化と考えていましたが、それはその意味する事、その存在なだけであって他の代物になり得る事はできないと確信しました。実生活とデスロボでは、次元が違うのはわかりきったことですが、その目的は実生活ではない非現実の再現であるだけだった。ただ、その意味さえあるか疑問に思います。現時点では、まだまだ中途半端な状態ですので、制作が進行すれば違う考えも持てるかもしれませんが、概念の枠を破壊するのは難しいです。

<エヴァンゲリオン>
かなりおそまきながらエヴァンゲリオンに強く引かれている。7年前の作品だ。出会いは、パチンコやで去年の暮れくらいから台があった。設置当初、全然かからないので毛嫌いしていた台だが。2005年になってこんなことでいかんとキンパチをしていたが、魔がさした。また行きだしてその台を打っている。当時、テレビで放映されていた時分は、難解だという人からきいた情報からビデオ全巻借りてまで見ようとは思わなかった。今日、映画版をみた。解説のHPなども充実していてはまってしまった。時代遅れだなあと思うかもしれないが、今の時点で見ても何の違和感なく楽しめた。そこで、私は何でデストロイドロボットをつくってるのか考えた。私には、普通に宗教観念もあまり持ち合わせていない。私が恐れてることは何なのだろうかと?デスロボは何かしらの答えであることは間違いない事実。自分では気がつかないトラウマ。自分自身の分身で、生身では出来ないバトルをすることが目的か?違うようなきがする。しっくりした答えがでない。

<ゲーム>
最近、発売されているHalo2というゲームであるがよくできていると感心する。ファミコンが売り出されたころ、私は小学生くらいでゲームセンターといわれる薄暗いところによくいっていた。そのころのゲームは二次元的な表現方法がとられていた。少ない情報でプレイヤーはイメージを膨らまして遊んでいたと思う。ちょうど、本を読むことのように。自分のキャラが16ビットの記号でも感情移入して楽しめた。細部に対してのイメージは、個々の情報によっていろんな形になっていたと思う。いまでは、その辺の情報や自由に動き回れる範囲が増えたが、映画さながらの描写でそのままを受け入れることになるのだろうか?私の年齢では考えがまとまらないが、いまの小学生が発するイメージはそれ以上なのか、またそれ以下なのか?ちょっと気になる。画像や自由範囲の進歩だけがゲームの進化ではないが。テレビゲームを長時間やると、あほになる。という人がいる。自分でもそうなっているところもあると認めるが、ただ単にあほになるだけではないと思う。種類にもよると思うが、種類とかじゃなくてモニターに対面していることが問題のようだ。この辺が、改善されて脳にも優しい機械になってほしいものだ。

<けれん>
デスロボはケレンである。がちんこのバトルでもなければ、技術の競い合いでもない。年末の格闘大会をテレビでみたが、一番面白くなかったのは秒殺というやつである。カードの組み方に問題があるのか、わざとそうしたのかわからないが、ああいう試合が続くとお金払って観に来た人は怒らないのだろうか? デスロボに技術の伝統を感じることは出来ないし、スポーツマンシップも感じられない。私が大切にするのは、観客に意表をついた驚きを提供することである。私自身わからないから、そういうことが成り立つのである。実直なものはエンターテイメントにおいて馬鹿にしかみえないのである。人それぞれの好みもあろうが、素人にも誰にでもわかることは大切であると感じる。たとえの逆説はアートであろう。薀蓄を垂れなければ理解不可能で、薀蓄を垂れたところで面白くないからだ。最近、見た映画でデビットリンチが面白かった。彼の作る映画は、わからないからだ。固定概念があると、まず見れたものではない。が、雰囲気では感じ取ることができるからだ。邪道でも面白ければいいのである。ケレン味のないデスロボは見ることができないだろう。

<巨大化>
ロボットブームなんか下火になってきたが、おもちゃ売り場とかを見て思っていたことがある。なんというか日本人的なサイズというものだろうか?なんといっても卓上というやつだ。アメリカのSRLのマシンと、デスロボのマシンのサイズに差があるのも同じことなのかもしれないが、バトルボッツのみかん箱よりはまだましだよ。まあ、おもちゃメーカーからすれば売れないと話にならないからしょうがないことだが遊び手にも、欲求の足りなさが顕著にうかがえる。なぜ、アフガンハウンドサイズのアイボがないんだ。なぜ、百四重分の一のモビルスーツで満足するんだ?着れないだろ!さて、ここで考えることはどこからその刷り込みが始まったかだ?ひとつは家庭環境の狭さにある。昔、日本人はウサギ小屋にすんでると言われたものだ。今は、なおさらかもしれない。ワンルームに収まりうる世界とはいかほどか?ネットとかが拍車をかけていると思われる。そのほかは適当に考えてみてください。なにか思い当たる節があるかもしれない。デスロボは素直に卓上化の雰囲気を受け入れられないので取り合えず3m級が基本かな。早く土地がほしいよ。秘密工場なので山奥につくる予定です。見つけないでね。

<数>
まず、最初に個体を構成する物質の数が多ければ多いほど人間の感覚には生きているように見えるのではないか?人間を構成する細胞や器官の数はいったいいくつあるのだろうか?その数を満たすほどの部品で構成されたロボットは人格やさも生きているように見えるのではないか?数が多ければ多いほど、人間的な感覚として生命を持ったものと感じると私は思う。点より線であり。人間も逆に、数を減らせば生きているとは思わなくなってしまうのではないでしょうか。トレーに入った、受精卵は細胞としては二つ。多分見た目では、誰も理解できはしないと。

<反響>
この文章を読んでくれる方がいるんだね。ありがたいものだよ。何かを作ってると、反響と言うことがきなるのは当たり前の事だと思う。人それぞれの主旨があるが、少なからず外部の目に触れてしまうものだ。自分の欲求を満たすための行動が知らず間に一人歩きするのも仕方ないことと思う。(秘密主義は楽しいと思う)製作者、作家は自分の世界を作るのであってそれをどう他人に表現するかは、また違った意味があるのではないか。有名、無名、自分が認識しているか知らなかったかでも大きくちがうのでは。そういう事を、本業にしている商売もあるが、何にしてもどこに魅力を見いだせるか?だと思う。人の反響は、自分を認識する上で、十分に必要なことである。がやりたくないことまでする必要は全くない。仕事じゃないんだから。

<HPのイメージ>
一応、パフォーマンスアーチストなのであろうか。他のHPなどをみてくらべると、私のHPはかなりうさんくさいと思う。イメージとしては、昔のPSのゲームでクローンズゲートというのがあって近未来の香港がまるで異次元空間のような世界感は、私は大変好みなのである。ゲームの内容もかなり異次元空間だった。大阪の町並みをみてると、あとはもっと凄い高層建築で空がおおわれればいうことないのにと。もっと、ゴミの不法投棄をすれば材料も手に入りやすくなるし。暗闇は人を、自由にしすぎるか?人間対人間の犯罪は後味がよくないのでそういうのはなければいいが。暗闇でもロンドンみたいにカメラが町中に設置されたりして。部屋の中は、漫画状態のままだ。雪崩が起きて作業中に頭を直撃された。HPは最近マイナーチェンジしたのだ。誰もわかってないようだけど。もっと、かっこええHPにしたらどうなんだろう。デスロボの活動は、ごくごく無駄を推奨しているが、機能的な面も持ち合わせている。矛盾している。面倒くさいのが、結果機能的につながるのであって、合理化もめんどくさがりの理論だ。デスロボは、装飾を殆どしていない。私がそういうことに意味を見いだせないからだ。これだから、デスロボはファッションなんかにくっつかないのだ。最近は、映像的な活動の協力もしているが、美術には提言をさけている。なぜなら、偽りの装飾はかっこわるいと思う節があるからだ。こけおどしとかは賛成するが。「見た目が大事」というなら、格好だけの詐欺師にでもなってやろうか?そうしよう。みんなやってることだ。

<プロレスとデスロボ>
プロレスというエンターティメントがある。わたしはあまり詳しくないが、タイガージェットシンとかがなんとなくよかった。デスロボの元はプロレスからきたものでもあると思う。現在の構成は、我がデストロイドロボット本部と東京のムデルエンターテイメントの協力活動によって成り立っている。本部は、わたしが総括するのでそのまんまの色がでてしまう。また、東京のほうはデスロボとしては同じだが出来上がったマシンは全く違った精神からできているのも確実だ。ここで、プロレスにたとえると我が本部はヒール役であり、東京側はベビーフェイスなのである。特に考えてこうしてきたわけではないが、作っている本人の性格がちょうどこのような状況に至ったのであろう。プロレスラーには、相当の体力が必要なものである。デスロボマシンはその点、破壊というパフォーマンスをする上で十分な耐久力を備えて製作されるはずである。が、私の製作方針としては自分が楽しめないショーはやらない。やりたくない。なぜかは、人生がそうであるように先行きやシナリオがわかってしまうと極端にしらけてしまうものである。ここで、真のエンターティメントを求められるならそのアタリの確実性はそなえてないといけないものであると普通は考えられる。しかし、私本人もバトルをやっているときは楽しみたいので、自分が予想もつかない結果に終わるのが最高に楽しいのである。少々の粗筋や八百長はあたりまえだが、それ以外の結果に終わるのがバトルを観戦しにきてくれる方々にも楽しんでいただけるショーであると確信する。結果、デスロボ製作においての私本人の手抜き作業は必要不可欠なのである。幾多の手抜き作業により、私本人も混乱するのでなおよしと思う。

<害書といわれてしまう>
最近か、どうかわからないがHPで兵器の作り方の検索をしてもでてこん。外国の方は、あるのかわからんが英語がなにぶん読めないもので、役にたたん。いわゆる害書といわれる本は、なかなかお目にかかれんし、しょもないことが(例えば、歴史だとかまつわる事柄だけとか、著者のいらん感情だとか)載って写真は本のごく数ページ。こんなんじゃ、害書にもならん。日本の法律に守られて、生活している以上あんま文句もいえないが、自衛隊とかの軍事演習場のようなものがほしいな。「今の環境で精一杯のことができればいい」とか、私はおもわんし。本当の害書って、どんなものなのか?どんな人間がよんでも悪事を働きたくなるような真理をついた本や文章があるのか?最初にかいた兵器といっても中途半端なものだからのってないのかな。中途半端な兵器というか、兵器じゃないかもしれない。ロボットにつければ何でも武器になりうる。自問自答している文章なので、もしよんでる人がいたら読みずらいだろうな。なんかのアニメを見ていて、魔法使いのような人が、呪文を唱えるのだけど。あれは今で言う声紋かなにかのパスワードで画面外の武器を遠隔操作しているのだろう。日本橋に声で動くラジコンがうってたけど、デザインが最悪だった。私の作ってるのは、そんな世界の、アイアンゴーレムってとこなんかな。弱いけど。ここで、私がこの単純なアイアンゴーレムの作り方を本にでもまとめたら害書になるでしょか?誰にでも解るように書いて、誰でも作れるように書いて、誰かが動かして何かをしでかす。本より先に、HPでコーナー作ります。

<ロボット以外>
私はデスロボばっかにかまっている暇はないのだ。もっと、ぐうたらしたいし昔からこんな事ばかりしていたわけでもないのだ。次の目標は、人体改造?自分の体を使うしかないな。公園で拾ってきた雑草がベランダで大きくなってるのがうれしい。買ってきたアイビーは鉢が小さいので枯れては生えての繰り返しをしている。台所はナメクジがいつも遊んでいる。ごくまれに風呂場を野良フェレットに覗かれてしまう。FF8をクリアして思ったことは、時間に興味を持った。たくさんの役立つゴミをつくっても時間に消される。未来になったら高層ビルや町も遺跡になってしまう。物はたくさんの組み合わせによって力を発揮するのだと思った。あるべきものがあるべき場所でその役割を果たすときに力が現れると。人間は、バラバラになったものを無意識に組立てたがるのだと。人間じゃなくなったらいつまで存在できるのだろう。

<デスロバ>
タイプミスによりモニター上によく目にする言葉。なんか気にいったのでこの名前のマシンも作りたい。

<枠の狭さ>
この前の展覧会から、アートがどうこう言うのがバカらしくなった。なぜ、芸術とかアートとか言わないと他者との関係が結べないのだろうか?デスロボはそんな枠に、収まる物ではないので今後このような宣伝や売り出し方に対して考える必要がでてきた。私がとらえる芸術性も、他人と共有する事が確認されないまま固有名詞で会話する違和感に疑問を感じてしまう。たいていの人物は、このような枠的意識は気にしないほうがよいと助言されるが、否定してしまうとその物事自体の存在を危ぶむ結果にはならないのだろうか?私の求めるものは古来に存在していたであろうと思われる威厳と言われる力である。目に見えないその圧力は、自制や恐怖感、自尊心、求心性をともない抑圧された秩序を形成するものであると思う。その体制についての悪影響は、古来から反発力や反骨精神を養う源になり生きる存在感を手に入れる方法であったと思う。混沌と言われる世の中(全然そうは思わないが)に、威厳の力を取り戻そうとした行動として父権などが思い出される。また、自信過剰による暴走行為もなにか、虚しい気がする。各レベルごとの枠形成において自覚または存在価値の認識を行わなければある程度の共同社会の確立は困難に思われる。なんか訳わからんこと書いてしまったが、デスロボの活動としてはアートでどうこう言われるより6時のニュースに取り上げられる方がうれしく思う。新聞でもいい。取り上げられる内容は、芸術性を排除した内容が望ましい。

<観客の安全性の問題>
私はそんなに危険な物を作ってるつもりはないのですが、一見危なく見えるのでしょう。物は使いようというように全て人間が関わることによって事が起こりえるのです。兵器であれ、ぬいぐるみであれ使い方次第です。私は社会に対してはとても不器用ですが。人間は中途半端な生き物です。一線を越えると犯罪者になりうずくまってると死人のようです。その中途半端な行動がアートといわれるものであり社会生活そのものだと確信します。その微妙な枠の中で、また理解可能な世界のなかで価値や基準、常識や道徳が生まれているのです。同じ人間、同じ思想では通用することもはたからみれば、何の意味をも持ち得ないことが殆どなのです。そこで、必要なものは無敵であり安全に守られた傍観できる場所なのでしょう。そこは自分の無責任さが自由に披露できる世界。人は奴隷ではなく神へと転身する願望を捨てることができません。遺伝子か何かで操作でもされているかのようです。

<展示物の正体>
人間は、目に頼った生き物です。目で見た情報を優先的に処理します。危険と感じる物体は、人によって違いますが、私は「人」が恐くそれも顔で判断してしまいます。展示物はどうでしょう?触れる許可が表明されている作品や、厳かな雰囲気の空間での展示。完全な柵を施したもの。路上に放置されているもの。実際、何らかの恐怖を感じるものには近づこうとはしません。しかし、それも目で見える範囲でのこと。なおさら触れることもしません。恐怖でなかったら、自分自身の尊厳が許さないのでしょう。それは、社会の流れであり、いい年こいた大人が滑り台で遊ばないことと同じです。いつから、そうなってしまったのでしょう?おおっぴらに行動する事は隠された楽しみを感じることができない物もありますが、大半にいたっては手に取って感じることが重要だと思われます。展示物の正体または真の目的を見いだせないまま、判断を下すのは誰にでもできることであり評価に値しません。見る側の人間、見せる側の人間が双方とも譲り合った環境でこそ話しが出来るものであると私は思います。

<動物の死骸>
最近、豚の頭が手に入りました。もちろん作品にするつもりでもらい受けたものです。人間は、目の前に起きたことを現実と認識します。例外もあります。ベジタリアンの人は別として、動物の肉を食っているのに牛や豚が殺されるのを反対する人がいます。鯨もしかり。当事者の勝手な判断により、保護動物に指定されたり害獣だといって射殺もします。今、販売されている新薬の殆どが動物実験をしないと認可が下りないそうです。私の意見は、殺される為に生まれる生命もあると思います。ただ、何言ってるのか理解できない動物語を人間が聞こえるようになったらどうなるのか楽しみです。「死ぬのはイヤだ」と泣き叫ぶ肉を、美味しいから切り刻むのです。たまには「私を食べて」というかもしれません。人間VS人間ではこうはいかないでしょうけど。釣りとかだって、食べるのなら私はいいと思いますが、釣り針でひっかけといてまた海にもどすのはどっちが残酷なんでしょう。人間の欲望は限りないですね。でも、動物実験中の機械のついた猫とか妙にかっこいいのはなぜでしょう?あれが人間で、機械のついた人を見てかっこいいと思ったらいけないことなんでしょうか?生身の体は、今現在私の考えでは一番高価なものになってます。しかし、神経の謎が解明されたり生身のコピーが作れるようになったら機械の体もほしいと思います。そうなってくると、バーチャルの世界観っていうのはそのシュミレーション段階であると思われます。その次は脳味噌のコピーですか。そうなってくると、人間の価値は個別の思考や精神であり、またその行動と言うことになるのでしょう。今や、力は機械に取って代わられています。合理性を求める上で、移動手段は車に乗ることで人間の足はタイヤへと変化したり、軟弱化した現代人の目は遙かに遠くを見たりできるカメラとなります。実際、脳味噌だけうまく動けば人間の人格は確立したりして。でも、やっぱり人間は生命の力の様なものを信じてオリンピックとかして存在価値を再認識してるのでしょう。

<最終テーマの答え>
デスロボバトルによって追求するテーマとは、人間性だったのではないかと考えています。デスロボは私の分身であり、満たせない欲求を解放する存在です。なれない物になり、できないことをし、自滅もできる存在。 ゲームやSF映画や本の世界は、自分の身が安全であり見ている本人の都合のよいように感じることができます。また、見ている人間が時間も操れる存在にもなれます。私は、その内容に何かが不満で自分の世界を現実化しようと考えました。一つに、世界観の違いがあります。やはり、用意された世界である以上は何かしらの違和感を感じずにはいられませんでした。一つに、感情移入の相違があります。ある程度の年齢を重ねると、その個人の人格ができあがります。選択肢の少なさにも関係あるのでしょうか?なりきれない悲しさをそのような世界にまで求めるのでしょうか?今、現在の私の状況では満足のいく世界にはなりきれません。話は戻って人間性とデスロボについてですが、やはりデスロボはわたしの分身だと思います。人が家庭をもってその世界観を作り上げるのと同じだと思います。デスロボは私の精神や感情を、具現化した形であると思います。まだ、数がすくないので全てと言うわけではありません。そうやって具現化することで、人間性(自分自身?)を考え直したいのでしょうか?私にもよくわかりません。ただ、単純に興味があったからでしょうか?

<芸術教育という問題>
デストロイドプロジェクトに伴い少しばかり教育者の方とお話する機会がありました。私個人の問題として生活の糧にしようと教育を考えはじめてから、いろいろな問題があることを実感しました。まず、芸術と美術は違うということです。厳密には美術は、芸術の表現方法の1つであり特に「美」を表現する技術とあります。内訳として絵画、書道、彫刻、建築、写真、工芸などの芸術とあります。そこで、今度は芸術とは何でしょう。それは、学問、宗教、道徳、に並ぶ文化の1つでありますが、その後に「美」を追求する活動等とあります。ここで疑問なのは「美」ではない「醜」とされるものは芸術ではないのか?ということです。私の考えでは美術は「美」を追求するものであればそれでいいと思いますが、芸術となれば「醜」といわれる物になんらかの価値を見いださなければならないと感じます。なぜなら、現在行われている美術教育は「美」を追求するものであって義務教育の中でも取り入れられています。それは、美という事に対しての強制的価値観の植え付けであります。作品の評価に、制作活動の真剣さをはかりにするならそれは作品の評価ではありません。また、真に評価を下す人物が美ということに対しての認識が高いとも思えません。幼少の頃に教わった美術という価値観の曖昧さが後に、美術ということにおいての感心を削ぐ原因なのではないのでしょうか?このことが反面教師となり教育される環境から離れた時点で、真に美術とは何だったのか?と考える時がくるのはいつのことでしょうか?大半の人間は感心を持たないでしょう。それが、現在置かれている日本の美術教育の在り方であります。そして、芸術活動及び美術活動においての評価の低さにつながります。「遊び」と言われることです。しかし、「遊び」と言われても怒る必要もありません。私は芸術とは、実際に「遊び」を追求していく 事であり自由な精神で創造されるものであると信じています。また、ゆとりのある精神構造であります。

機械の痛みがわかるか?
機械の痛みのわかる人間は、世の中にいるのでしょうか?破壊されたロボットはどうなってしまうのでしょうか?哲学の言葉に「無価値の判断」と言う言葉があり、破壊される事も生産される事も物理的な物事であり、金属等の物体の変化であります。また、物体に魂が宿ったりするのも「物念」ということから人間の感情が関与しています。世の中においての価値判断は、全て人間が関わって出来上がっているのです。2次元的なもの及び3次元空間に存在するものに対して、一方は暴力的だから排除するとしてまた一方は「かわいい」といってオナペット化された存在を認める人間は矛盾した生き物なんだと私は思います。また、矛盾と言うこと自体が人間の価値判断の象徴であり、仮に人間が存在しなければ矛盾した事なんて存在もしません。そこで、デスロボの登場になるのです。

自慰行為的表現方法
ノイズのライブは、よく自慰行為(マスターベーション、オナニー等)だと言われたりします。とても、的を得た形容だと思います。私自身もそう思いますし、見る側も見せる側も体験しました。ここで、問題なのは「オナニーなら家でやってろ」的な表現の否定をする人がいることです。彼らの考えでは、自慰行為的表現は鑑賞に耐えうるレベルのものではないと言うことです。では、鑑賞に耐えることのできるレベルや表現はどんなものなのでしょうか?エンターテイメントやショーとして洗練されたものだけが表現を許されるのでしょうか?ここに観客主体の表現の流れがあります。これは、大多数に認められる商品は素晴らしいものであるという固定観念からくる幻想であります。認める側がいないと、表現として成り立たないのであれば、認められるように作り上げられるという構図ができあがります。理解しやすく言えば、「他人のオナニーは見たくないけど、自分が気持ちいいようにフェラチオもしてくれるなら見てもいいよ」ということです。また、表現者側は「とりあえず見てもらいたいから何でもやるよ」といった考えになると、何を表現したいのかわかりません。自慰行為的表現は、表現をするということの根本です。批評家や審査員はこのことを踏まえて、「オナニー観賞が好きな人」がならなければ本当の意味での芸術の発展はありえないでしょう。また、表現者は「俺のオナニーを見ろ!」と大声で叫べばいいのです。

今後も展開2000年から
さしせまる世紀末、世の中の考えも価値観も劇的に変わってしまう予感がしてなりません。1999年末にSRLのショーを生でみることができてよかったと思います。日本でのロボットブームと言うべき風潮は、残り2〜3年もしないうちに過ぎ去ってしまうでしょう。そのことを、考えると以前から禁止していた生物の使用を例外として制作物に取り入れたいものですがやっぱりその生き物のことを考えると到底できそうにありません。 取材などで思ったことは、精神的なロボットへの思考と表面的なロボットへの思考とがあるように思われます。私が多大な影響を受けたものとして、ここに精神的と思われるロボットの例をあげます。1つは、沼正三(漢字が間違いかも)の「家畜人ヤプー」です。結構分厚い小説で上下2巻にからなりますが、話の時間経過は2日間ぶんくらいで殆ど説明であります。この小説に出てくる未来の日本人の姿から、現在ロボットのおかれる状況が私には非常に似通ったもしくは同じに見えました。一方は加工された人間(人間の地位など以外と不安定なもの)また一方は人権のない機械です。この立場が逆転したものに松本零時(漢字が間違いかも)の「銀河鉄道999」があると思われます。(細かくは半人間半機械のサイボーグ)この話の内容は皆さんご存じだと思われます。しかしながら、「銀河鉄道999」にはより現代の社会構造に近い機械化された人間(生命維持装置などの過度の使用による判断できない状態で生かされる人間や行動や思考がお役所的な疑似機械人間)への危機感が受け取れます。また、反対にうめずかずおの「私は真吾」は機械が人間的な心を宿すところが非常に私は感動しました。実際の話、当の本人にしてみれば生きていかなければならないたくさんの理由があり、また行動もお金の為に制約されてしまうのが現状でしょう。私もそのうちの一人です。がその結果、大半のSF作品に描かれる荒廃した世の中になってしまうのはほんとに恐ろしいと思います。一見、有害と思われることや無意味なものを許容できる世の中を目指して作品を制作していきたいと思っています。(敬称略)

観客としての意見
私は観客の意見などを聞いて物事を進めてるのではありません。全く持って自分のしたいことや頭の中を表現しているだけなのです。 いったいいつ頃からかわかりませんが、制作者に対して愚問としかいいようのない意見を述べる輩がおおくなってきたのでしょう。デスロボにしろ大名行列にしろBar Noiseにしろ全て、人からああだこうだ言われるためにやってるのではないのです。もちろん、感想や助言は心よく受けたりしますが 必要以上の干渉は、身の程知らずであり自分の考えがあるのなら本人で実現すればいいだけのことだと思います。ショーや作品は、観客を楽しませる為に制作するのではなく、私個人が納得するための活動であります。 ですから金がかかってようが人手がかかってようが、一番重要なのは制作者である私が満足することであり観客の評価ではありません。

デスロボと破壊
デスロボは破壊というテーマにそって活動をしてますが、なにも壊すだけが破壊ではないんです。デスロボはなんか私からすれば結構かわいそうな存在です。なんせ破壊されるために生まれてきたようなもんだから。こんなこといったら当のロボットはもっとかわいそうですが本当のところそれが事実です。私の考えるところ破壊のためのロボットなんてよくよく考えれば世の中にでてくるはずがない。仮に戦争が進化してもロボット兵器は役にはたたんでしょう。まして人が乗るなんて、人間魚雷となんらかわらない。これは合理的な考えのこと。もし、役に立たなくてもロボットが戦争なんかに出てくるのは戦争に関わるの人が実はロボット好きなんでしょう。戦争は最初から反対ですが。このことからデスロボは無意味なのもや、世の中に必要とされてないものという意味で製作しています。

デストロイドロボットの語源
DESTROYED ROBOTは正しい英語の表記ではありません。これは私が勝手に作った造語です。DESTROYEDは destroy(破壊、殺す、〜er破壊者、駆逐艦)とアンドロイド(人造人間)と”〜される”という受動態のedをたしたものです。まとめると破壊される人造人間です。外人の友達がいうには「意味がとうらない」らしいです。ロボットはその名のとうりです。(ロボットのHPは多数あるのでそちらを参照)

デスロボのもとネタ
デスロボにはルーツがあります。これは私がbar noiseをやっていたころ、店のイベントでビデオの観賞会「X-VIDEO」の時、東瀬戸さんに見せられた「S.R.L」のビデオがきかっけです。「S.R.L」はアメリカの団体でいろんなマシンがたくさんでてきてショーをします。張本人はマークポーリンという人でかなり前から活動をされている芸術家です。(多分、芸術家です。)その他、時々フルクサスの活動にも似ているといわれますが私はフルクサスは知りませんでした。まあ、ビデオをみてこれは凄いと思ったのですがアメリカにいって活動する基盤もないし日本人だしということで日本で似たものがあるかないか探してみました。結果、知りうる ところでは「S.R.L」に相当するものはないと判断しこれは狙い目だと思い活動を始めました。仮にあったらそこに入って活動しようと考えていたのですが、自分でしないとだめでした。もひとつ、アメリカ、イギリスなどで活動しているRobotwarというのがありこれは日本のロボコンの少しでかいのがぶつかりあうというものです。どちらかというとスポーツ的でルールとかあり参加費がいるなどあまり私ごのみでなかったので。なんかをみてまねしたつもりがこんな不出来なものになってそのうちデタラメなほうがおもしろくなって今のデスロボの形になりました。まあ、だれが作ってもその人の個性がでるのでなるべくたくさんの人に参加してほしいです。

デスロボの独自性
芸術の話になるとなんか素人にはわからん話題でけむに巻かれた気がしますが、デスロボが私の個人ものという意識がどこにあるかが問題です。先に述べたルーツなど誰しもなにかしらに影響されていると私は思います。そのことを恥じずに活動することも大切だとおもってます。よくこれはオリジナルだなどということを耳にしますが生まれてこのかたその人はどんな生活をしてたか疑問に思う。だから著作件なんてのもあまりすきではありません。サブマリン特許なんてふざけた話だ。誰だって小さい頃みたSFやアニメに影響されてるはずだ。そんなんでデスロボは参加自由ですしでるのになんらお金を必要としません。(経費は寄付や参加者の折半です。)私は個人的にはお金もほしいし有名にもなりたいです。が、そんなことでデスロボの将来を潰すわけにはいかんのです。たくさんの人がデスロボを持ち寄って楽しく遊べる世の中になるまでは。だから、ルールもないほうが今はいいのです。後にも必要はないでしょう。私はこの活動の功績を世の中に認めてもらうことによって報酬をもらいたいのです。

デストロイドバトル
デスロボの大会のことですが、よく観客などに誰が勝ったのとか聞かれます。デスロボは勝った負けたがは重要ではないのです。これは参加者が増えればいろいろと考慮する問題ですが、私は「一番いい壊れ方をしたマシン」に栄光を捧げたいです。強いのは金と時間と労力があれば誰でも作れます。そんなことは企業にまかせとけばいいのです。デスロボを作品としてTVに出した時、「勝者が誰かわからず世界が狭い」と言われました。 戦うということはどんなことなのでしょうか?勝者とは一体なんなのでしょうか?私はこのことでスフィンクスの話を思い浮かべました。デスロボは破壊がテーマであります。なのにこの審査員は先に勝敗を連想しました。デスロボは見る人間を試しているかのごとく黙っているものです。人間の鏡となりその恐怖や攻撃性を浮き彫りにするのです。あなたはデスロボをみてどう感じるのでしょうか?

スタンド型対戦ロボット
はじめラジコンだったデスロボもいろいろな種類が現れるようになり一言では限定できなくなりました。そこで私の好きな漫画家の解釈を使っています。このマンガはJoJoなんですけどたくさんのスタンド使いがでてきてあんな能力に憧れたものです。あんなかっこいいデザインにはなりませんが本質的には近ずきたいものです。そのうちまたかわってしまうでしょうけど。

ディテーイルのこと
細部のこだわりは例として一つあります。デスロボの製作部品は主に廃材を利用していますが、製作過程においてもその経緯が残るように製作されています。これは作品に対して完成とし物化する行程を故意にしておりません。(寸法切りのときの線をシンナーで消さないや部材の持つ色をねるべく利用して全体の色を構成するなど)このことにより鉄材でも木材の年輪にあたる時間の経過を表現しようと考えています。ナンバリングすることやその時の状況を表すステッカーなどを貼る作業も同じと考えています。また、全体のイメージはバイク のネイキッドタイプに似るところがあります。

バトルのルールについて
デスロボのバトルには(生物の使用)を除いて明確なルールは存在しません。ロボットコンテストは一定のルールの上で配付される材料や製作期間、見知らぬ人とのチーム構成によって競技をします。これは製作者の 力量はかなりのものであると思われます。ルールの上で競い合う楽しみは十分あると確信します。どちらかといえば、スポーツマンシップに似た暗黙の常識が存在するかのようでもあります。以前レジストという雑誌にも書きましたが、私が問題とするのはそのルールが斬新な発想の歯止めを担っているのではないかということです。デスロボはそうした不自然なルールというものを排除することにより何かを探ろうとしています。実際の話、私の作るマシンやロボは決して完成度の高いものとは言えません。むしろ、欠点の固まりでしょう。合理的な戦闘マシンがこの先、新たな製作者によって登場しバトルをすれば簡単に私のマシンは破壊されるでしょう。しかし、デスロボはこのような状況をも吸収しなければなりません。負ける感覚とでもいうのでしょうか?いま明確な事は私自身わかりませんが勝つか負けるかだけでは理解できない世界がデスロボには宿ってると考えます。

デスロボの価格
SHOPの欄でデスロボを購入できるようになってますが、はっきりいって売る気のない値段がついてます。あんまり手放す気はしません。でき上がったロボはどれも思い出深いものです。芸術作品ということで値がついたものもありますし、手間ひまなども値にはいってますが。本当は、デスロボに参加する方にはご自分で制作してもらいたいからです。そうでなくてはデスロボの意味がないのですから。

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